哲人あの日あの時
 
 

 あれほど煙草のお好きだった先生が、ある日のこと、一向に召し上らないので、私は不審に思った。先生は私の表情をお察しになって次のようなお話をされた。

 ついこの間、京大出身のある医師が先生をお訪ねした際

 「煙草をやめたいと思うのですが、こればかりはなかなか出来ないものですね」

 といったので

 「煙草や酒をやめようと思えば簡単だよ。人が無理矢理に飲ますものじゃないのだから自分が口にしなければ、それでよいわけだ」

 「それが出来ないから悩むのです」

 「酒や煙草をやめるのはわけないが、むづかしいのは女性関係だな」

 「先生、いや、その方なら、私自信があります。」

 「そうかな。煙草でも酒でも、自分だけがやめようと決心したらそれで事すむわけだが女はそうはいかない。いくらこちらが切れようと思っても、先方からまた押かけてくるのだから仕末がわるい」

 真面目とも冗談ともつかぬ調子で相手をさんざんじらしておいて

 「では私がやめよう」

 と、折から吸いかけの葉巻きの先を、灰皿ヘグリグリと押し潰され、

 「さあ、これでおしまい」

 ポンと手を打たれた……

 お話しぶりの面白さに、思わず大笑いした私だったが、同時に一会員のために、あれほどお好きだった煙草を、即座に禁煙、身を以て範を示された先生のお心の尊さに胸のせまる思いがした。

 どちらかといえば、ヘビースモーカーの方だった先生のことだから、禁煙当初誰にでも起る禁断症状も、相当強烈だったと思うが、先生はその都度クンバハカで、スラリと乗り切られたそうで、まことにすんなりと禁煙に入ってしまわれた。

 もっとも、ご自分のため禁煙されたのでなかったので、その後でも知らぬ相手がすすめると「ありがとう」とお受けになって、一口吸われると灰皿で消された。他人の好意は素直にお受けになる先生だった。

 なお 酒の方は体質的に合わなかったそうであるが、それでも盃を差されれば、いつもにこやかにお受けになっていた。

  

 
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