哲人あの日あの時
 
Vol.33 天風先生と京都支部

秋保鉄太郎

 私の入会は三十年近く遡り、昭和二十五年春の夜の講習会で、京極は元誓願寺会館の二階、余り広くない畳の間で五、六十名位かと記憶している。戦後五年を経て漸く敗戦の底から起ち上り国内秩序も整いかけた頃であった。

 ご講演終了後早速入会手続きをして私は紹介者に導かれ、天風先生のお部屋で入会のご挨拶をして忽々と引き下った。面識のなかった橋田先生であったが、会場で見受け、今も瞼に残っている。

 その後講習会(五日間) 修練会(二週間)には熱心に参加した。当時は竹内支部長のもとに平塚理事長時代で、二十八年頃運営委員に加えられたが、なぜかお手伝いできなかった。二十九年に支部の内紛が起り、その頃から委員の仲間入りをするようになった。

 入会以来講習会場は前記京極元誓願寺会館、先斗町歌舞練場、寺町大雲院、木屋町立誠校、五条保健所、高倉宗仙寺、松原の五条天神、松原の困幡薬師堂、三条中井邸、四条染織会館、家政学園等それから現在の黒谷天風閣に落付き、寒期には府社会福祉会館を利用している。

 修練会場も家なき小羊のように建仁寺宗仙寺(夜間特別修練会のみ) 家政学園、黒谷本坊、漸く黒谷山内の天風閣に安住の地を得た。一方先生のお宿も御幸町平塚邸、竹内支部長宅三条中井邸、岡崎中井邸と移られ、この時代、夜の講習会が終った後、運営委員の面々がお宿の三条中井邸へ押しかけ、野崎先生お手づくりのご馳走を頂きながら、夜おそくまで怪気焔を上げ色々面白いエピソードがあり、なつかしく思い出される。

 講習会場の門前には天風会と書いた提灯がトレードマークのように吊ってあった。多分四条染織会館あたりから止めになったかも知れない。

 故中村保蔵副支部長は昭和二十九年平塚理事長(竹内支部長)の退任の跡をうけて内紛後の困難な時期を支部再建に尽くされ、常に天風先生のお側にあって「やすぞう、保蔵」と呼ばれいろんなご用を仰せつかっていた。さんづけなしに呼ばれた中村さんがうらやましかった。竹内支部長から三十四年橋田支部長になった後も引続き四十七年急逝されるまで重責を果された。

 岸田重一氏は戦前からの会員であるが、三十一年以降運営委員をつとめ筋金入りのお道の実践者として敬意を表していた。また橋田支部長と共に天風閣建設の先頭に起ち、多くの建設実行委員の協力のもとに完成を目前にして、惜しくも病歿されたことは残念であったが、支部の歴史と共に忘れ得ぬ人々である。天風閣建設は大へんな難事業であったが別の機に譲ることにする。

 

 台風襲来の夜間特別修練会

 昭和三十四年は日程の関係で京都夏期修練会が行なわれず、京都でも是非という希望でナイターの形で九月二十四日から三十日まで開かれた。二十六日は近畿地区に大きな爪跡をのこした台風十五号襲来という予報のもとで悲壮な気持で集った修練会であった。その意気に天風先生もいたく感じられたか受付備えつけの出席者名簿(便籤八枚)をお持ち帰りになりその表に次の如く墨書されている。

   「昭和丗四年九月二十六日

   京都夏期夜間修練会

   当夜台風十五号襲来の夜

   来会されし勇者氏名」

 これが先生遺品の中に永く保存されていたことが御帰霊後わかり、その中に私の名前を発見して感激を禁じ得なかった。因みに参会者は六十八名であった。

 

真善美の美について

天風先生のご講演に、「神の心は真善美である」と説かれ、「美は調和である」と簡潔に承った時私はこれだァと膝を打って感嘆した。私は商売柄、物(扇)を造ることに二十歳台から腐心していた。それまで物を造る基盤は調和にあると、おぼろげながら頭に描いていたが、ズバリ一言のもとに明言された時、電撃的な感動と喜びを覚えたのであった。これ程までにハッキリ簡潔に明言された宗教家、芸術家が嘗てあったろうか? このような説明は恐らくどの辞書にもないであろう。天風先生は実に偉大な芸術家でもあると思った。以後は物造りに自信を以ってたち向えるようになった。

 

 天風先生の書は天下一品

 書は人格を通して見るものであるが、天風先生の書は隷書を軸として篆刻の美を具えた鋭さと融通無碍、天性の雅美ゆたかな素晴らしい字であると思う。特に私には字配りの間のとり方の妙にはいつも魅せられている。融通無碍な中にもあるべき処にピタリと納まりその間合は絶妙で、寸分の隙もない。これは神技とも言うべく、またご講演・剣の道にも一致する間であると思う。

 天風先生は字を書こうとして書いていられるのではなく、紙の上に字形が現われているその上を筆が動いてゆくのだろうと私はそう思う。

 また天風先生の円相は定評があり実に立派で堂々としているが○(円相)を書く場合、対する紙面に○の形象が現われているのでその上を筆を運べばよいのだ、と。

 なお先生は彫刻にも秀れ立派なものをのこしていられるが例えば仏像の場合、木の中に像が埋もれているのでこれを堀り起こしてゆけばよいのだともおっしゃられていた。これには成るほどと感嘆以外に言葉を知らない。

 

 天風先生の剛毅について

 昨年故安武先生に黒谷山内に建立する碑文についてお願いした。その原稿を頂く際大先生のご気性をあらわすのに、よく剛毅とか剛胆、豪放とかいわれるけれども、私が長年お側に接していたのではそんなものじゃない、非常に濃やかな鋭どい神経の先生で私は高邁俊敏と表現したのだ、といわれた言葉が耳底の奥深く残っているので、私は時々その意味を思い返している。

 

寸時も忽せにされない先生

先生は長年に亘り京都のお宿として中井邸にご滞在中、書きのこされたご講演の原稿訓言、銘句等の書写が一まとめにして先生ご帰霊後中村保蔵氏を経て現在支部に保管されている。それによると半紙に丁寧に筆書きされている。例えば神戸より着到直後とか大阪へ出発直前とか日時を末尾に記され慌ただしい寸時を惜しんでいつとなく何べんでも繰返し書かれている。このように時間を大切にしながら浄書によって徹底的に文意を感じとり体得することに努められた様子が窺われ頭が下る思いである。時間の無駄使いの多い自分を省みて頂門の一針と戒めている。

 今にして思えば、先生が講習会や修練会に入洛される時、私達有志の者は京都駅までお迎えして、荷物と共にお宿の中井邸までお供することになっていたが、旅装(大抵和服)を解かれるや否や机に向って書見、書き物、細工を始められていたことが思い出される。

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